SSブログ
「『正信偈』ふたたび」その34 ブログトップ

貪愛瞋憎の雲霧 [「『正信偈』ふたたび」その34]

(4)貪愛瞋憎の雲霧

さて「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であると目覚めることが「無明の闇を破す」ことですが、そしてそれが救われたことに他なりませんが、しかしそのような目覚めに与ったからと言って、「わたしのいのち」を生きること自体はこれまでと何も変わりません。「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に生かされていると気づいただけで、「わたしのいのち」はそのままであり、これからも「わたしのいのち」を生きなければなりません。そして「わたしのいのち」は「わたしのいのち」である以上、「煩悩のいのち」です。「わたしのいのち」であることは、それが「貪愛瞋憎のいのち」であるということです。

なぜなら「わたしのいのち」を生きることは、他の「わたしのいのち」たちと相剋しあわざるを得ないからです。

「わたしのいのち」をすべての生きものに広げますと、「わたしのいのち」は他の「わたしのいのち」を「食う」ことによってしかわがいのちを維持できないという厳然たる事実があります。世には菜食主義者もいますが、その人がひとり山にこもり菜食で生きていくなら別ですが、他の多くの人たちに支えられて生きるとしますと、その人たちは肉食でしょうから、間接的に他のいのちを「食う」ことになります。このような直接的な意味ではなくても、「わたしのいのち」を生きようとしますと、おのずから他の「わたしのいのち」との相剋となります。「わたしのいのち」を生きることは「わたしのもの」を持つことに他ならず、ものには限りがありますから、さまざまなものを廻って他の「わたしのいのち」たちとせめぎ合うことにならざるを得ないからです。

「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であることに目覚めたからと言って、「わたしのいのち」を生きることは何も変わらず、そして「わたしのいのち」を生きることは自他の相剋を生きることであり、貪愛瞋憎を生きることです。かくして「貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天をおほへり」ということになります。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『正信偈』ふたたび」その34 ブログトップ