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像末五濁の世となりて [親鸞の和讃に親しむ(その86)]

(6)像末五濁の世となりて

像末五濁の世となりて 釈迦の遺教(ゆいきょう)かくれしむ 弥陀の悲願ひろまりて 念仏往生さかりなり(第18首)

末法の世となりはてて、釈迦の遺教かくれたり。弥陀の本願ひろまりて、念仏の声しきりなり

「釈迦の遺教かくれしむ 弥陀の悲願ひろまりて」という言い方をそのままに受けとめますと、釈迦の教えと弥陀の本願は何か対立するものであるかのような印象になり、弥陀の本願は釈迦の教えではないかのように理解されかねません。そうなりますと、釈迦の教えを説く聖道門と弥陀の本願を説く浄土門は水と油のようにまったく相容れなくなってしまいますが、そのように受けとめるべきではないでしょう。釈迦の教えに、聖道門的な説き方と浄土門的な説き方があり、時代とともに、前者がすたれ後者にひかりが当たるようになってきたと理解するべきです。

聖道門的な説き方とは、釈迦の教えを理詰めに説くものです。たとえば龍樹の『中論』。この書物は、釈迦の無我の教えを説くのに、いわゆる帰謬法をとり、もし世界のありようが無我でないとすると、どんなにおかしなことが起るかを理を尽くして明らかにしていきます。そうして結論として無我が正しいことを証明するのです。その一端を紹介しますと、こんなふうです。もし「わたし」という実体(他のものとの関係から独立して、それだけとしてあるもの)があるとしますと、たとえば「わたしが去る」とき、まず「わたし」という行為主体があり、しかる後に「去る」という行為をすることになります。そのとき「わたし」という行為主体と「去る」という行為はたまたま結びついただけで、その間に何のつながりもありません。両者は別ものですから、行為がなくても行為主体は存在し(まったく何もしない主体がある)、また行為主体がなくても行為は存在する(行為だけがあって主体がない)ということになります。しかしそんなことは「アリスの不思議の国」でもない限りありそうにありません。やはり「行為によって行為主体がある。行為主体によって行為がはたらく」(『中論』第8章「行為と行為主体との考察」)と言わなければならず、かくして「わたし」は実体ではないという結論に至ることになります。

これが聖道門的な説き方ですが、さてこれで「わたし」は実体ではないことを、たんに頭だけではなく身体で納得できるものでしょうか。「それはそうだが」という思いが残らざるをえないのではないでしょうか。われらにとって実体としての「わたし」はもう骨身に染み込んでいるからです。そこで浄土門的な説き方が登場することになります。それを次の和讃で考えてみましょう。


タグ:親鸞を読む
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