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「信巻を読む(2)」その104 ブログトップ

月愛三昧(がつあいざんまい) [「信巻を読む(2)」その104]

(7)月愛三昧(がつあいざんまい)

阿闍世が来るのを待って、釈迦が月愛三昧に入る場面です。

その時に世尊大悲導師、阿闍世王のために月愛三昧に入れり。三昧に入りをはりて大光明を放つ。その光清涼にして、往きて王の身を照らしたまふに、身の瘡すなはち愈えぬ。乃至 王、耆婆にいはまく、〈かれは天中の天なり。なんの因縁をもつてこの光明を放ちたまふぞや〉と。〈大王、いまこの瑞相は、および王のためにするにあひ似たり。まづいはまく、世に良医の身心を療治するものなきがゆゑに、この光を放ちてまづ王の身を治す。しかうして後に心に及ぶ〉と。王の耆婆にいはまく、〈如来世尊また見たてまつらんとおもふをや(如来はあってくださるだろうか)〉と。耆婆答へていはく、〈たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。放逸のものにおいて仏すなはち慈念したまふ。不放逸のものには心すなはち放捨す。なんらをか名づけて不放逸のものとすると。いはく六住の菩薩(初地から六地までの菩薩)なり。大王、諸仏世尊、もろもろの衆生において、種姓(カースト)、老少中年、貧富、時節、日月星宿(生まれた日の善し悪し)、工巧(くぎょう、手仕事をするもの)、下賤、僮僕(どうぼく、下男)、婢使(ひし、下女)を観そなはさず、ただ衆生の善心あるものを観そなはす。もし善心あればすなはち慈念したまふ。大王まさに知るべし、かくのごときの瑞相は、すなはちこれ如来、月愛三昧に入りて放つところの光明なり〉と。王すなはち問うていはまく、〈なんらをか名づけて月愛三昧とする〉と。耆婆答へていはまく、〈たとへば月の光よく一切の優鉢羅華(うはらけ、青蓮華)をして開敷し(花開かせ)鮮明ならしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく衆生をして善心開敷せしむ。このゆゑに名づけて月愛三昧とす。大王たとへば月の光よく一切、路を行く人の心に歓喜を生ぜしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく涅槃道を修習せんものの心に歓喜を生ぜしむ。このゆゑにまた月愛三昧と名づく。乃至 諸善のなかの王なり。甘露味とす。一切衆生の愛楽するところなり。このゆゑにまた月愛三昧となづく〉と。乃至


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