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たとえ実在しなくても [正信偈と現代(その97)]

(7)たとえ実在しなくても

 さて、キング牧師の夢そのものに真実があると感じるのは、それがキング牧師の勝手な夢ではなく、みんなのこころのなかにそれが潜んでいるからではないでしょうか。それが、ほんとうはみんなの夢だからこそ、そこに真実を感じると思うのです。黒人を差別している白人のこころのなかにも、そんな白人を激しく憎んでいる黒人のこころのなかにも、ほんとうはその夢がある。それが見えていないだけで、ほんとうはその夢があるから、キング牧師の夢に真実を感じるのです。その意味では、キング牧師の夢は「現実と一致している」のです。
 で、法蔵の願いです。「若不生者、不取正覚(にゃくふしょうじゃ、ふしゅしょうがく、一切衆生が救われないうちは、わたしの救いもない)」という法蔵の願いに真実がないでしょうか。これこそ真実だと感じないでしょうか。そしてそれは法蔵が実在するかどうかなんて関係ないのではないでしょうか。法蔵の実在に関係なく、その願いに真実があるとしますと、その願いは実はみんなの願いだということです。ほんとうはその願いがみんなのこころのなかにあるのに、それが見えていなかった。それが法蔵の物語を聞かせてもらうことで、「あゝ、自分のなかにもその願いがあるではないか」と気づかされるのです。これまでもずっとその願いがあったのに、まったく気づかなかったと驚くのです。
 ここでなお疑問が出るかもしれません、もしみんなのなかにその願いがあるのだったら、別に法蔵の物語を聞かせてもらわなくても、自分でそのことに気づけるのではないか、と。どうして法蔵の物語などというものが必要なのか、と。なるほど法蔵の物語などなくても、その気づきに至る人がいるのは確かです。何度も言いますように、法蔵の物語は真理そのものの気づきに至るためのひとつの道しるべにすぎません。ただ、真理の気づきを自分で得ることはできません。真理の気づきはどうあっても自分では得られない、これが他力ということです。

タグ:親鸞を読む
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