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帰命とは [はじめての『尊号真像銘文』(その59)]

(6)帰命とは

 まず帰命ということばについて「帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり」とサラリと述べていますが、これをサラリと読みすごすべきではないでしょう。このひと言の後ろには深い思索が潜んでいます。
 「行巻」のハイライトと言ってもいいのが南無阿弥陀仏の六文字についての注釈、いわゆる六字釈ですが、そこで帰命の二文字について次のように述べられています。「帰の言は至なり。また帰説(きえつ、ヨリタノムナリ)なり、説の字は悦(えつ)の音、また帰説(きさい、ヨリカカルナリ)なり、説の字は税(さい)の音、悦税の二音、告(つぐる)なり、述(のぶる)なり、ひとのこころをのべのぶるなり。命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。ここをもて帰命は本願招喚の勅命なり」。
 かなり錯綜していて一筋縄ではいきませんが、まず帰について「至る」という意味を出し、次いで「帰説(帰悦、きえつ)」と「帰説(帰税、きさい)」という二つの熟語を持ち出して、それぞれ「よりたのむ」と「よりかかる」の意味があるとします。さらに帰と熟している説という字は「告げる」「述べる」という意味だとして、「よりかかれと告げる」というニュアンスを引き出してくるのです。そして命について「業(わざ)」、「招引(招き寄せる)」、「使(させる)」、「教(させる)」、「道(いう)」、「信(たより)」、「計(はからい)」、「召(召喚する)」の意味を上げ、「如来の勅命」のことだとします。
 かくして「帰命は本願招喚の勅命なり」と結論づけるのです。
 帰命ということばは南無(「namo」)の漢語訳で、もともと「帰依する」という意味です。親鸞のことばでは「よりたのむ」「よりかかる」ということですから、言うまでもなく「われら」が主体のことばです。しかし「われら」が「よりたのむ」ことができるのは、それに先立って「よりたのめ」と告げられ、招かれ、命じられているからであることを親鸞は読み取っていくのです。弥陀が「よりたのめ」と命じているから、われらが「よりたのみます」と応じることができるのだと。

タグ:親鸞を読む
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