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われもと因地にありしとき [親鸞の和讃に親しむ(その40)]

(10)われもと因地にありしとき

われもと因地にありしとき 念仏の心をもちてこそ 無生忍(むしょうにん)にはいりしかば いまこの娑婆界にして(第117首)

修行の身にてあったとき、念仏の法あたえられ、不退のくらい定まりて、今この娑婆に戻り来て

念仏のひとを摂取して 浄土に帰せしむるなり 大勢至菩薩の 大恩ふかく報ずべし(第118首)

念仏のひと包み込み、浄土へともに帰らしむ、勢至菩薩の大恩を、忘れずふかく報ずべし

『浄土和讃』の終わりに「『首楞厳経(しゅりょうごんきょう)』によりて大勢至菩薩和讃したてまつる」と題され、8首が置かれていますが、これはその最後の2首です。どうして観音讃ではなく勢至讃を、という疑問が浮びますが、この後に「源空聖人御本地なり」とあることからその理由を推察することができます。親鸞は勢至菩薩の化身と信じられている法然聖人の恩を報じようとしてこの勢至讃をもってきたと思われます。ですから、この和讃で「われ」とはもちろん勢至菩薩ですが、親鸞は勢至菩薩を通して法然聖人の姿を忍んでいるのに違いありません。

さてここに「無生忍」ということばが出てきますが、これは「無生法忍」の略で、無生の法を受け入れるということです。無生の法とは、あらゆるものに自性はなく空であるということ、したがって生も滅もないという理法をさします。龍樹の『大智度論』には、これを不退の菩薩が得る境位と説いており、それを受けて和讃の左訓には「不退の位とまうすなり。かならず仏となるべき身となるなり」とあります。龍樹は『十住論』において、この不退の位(菩薩の階位で第41位、十地のはじめですので初地ともいわれます)に至るのに、難行の道と易行の道があるとして、「もし人疾く不退転地に至らんと欲はば、恭敬の心をもつて執持して名号を称すべし」と述べています。

それがこの和讃では「念仏の心をもちてこそ 無生忍にはいりしかば」と詠われているのですが、これはどういうことでしょう。本願念仏と無自性空とはどういう関係にあるのでしょう。それは、本願に遇うことは「わたし」に遇うことに他ならないということです。「わたし」に遇うと言いますのは、「わたし」に囚われて(我執です)がんじがらめになっていると気づくことです。本願に遇うまでは「わたし」あってのものだねと思い、「わたし」こそ自由と独立の砦と思い込んできましたが、それこそがほんとうの自由と独立を失わせている元凶であると気づくのです。本願に遇うことによってはじめて「わたし」に囚われていることに気づくということ、これが「念仏の心をもちてこそ 無生忍にはいりしかば」ということです。

(第4回 完)


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