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こんな自分が [『ふりむけば他力』(その47)]

(9)こんな自分が

 「ありがたい」ご縁はごまんとありますが、何といっても一番「ありがたい」のは「いまここに生きていること」です。
 とりわけそれを強く感じるのは、大災害に見舞われたようなときや、戦乱に巻き込まれて九死に一生をえたときでしょう。そんなとき「いのちのあること」が何とも「ありがたい(あること難し)」と思えます。そんな状況においては、いのちがないのが普通のことで、そのなかで「いのちあること」はほんとうに「ありがたい」ことですが、しかし、そんな特別な状況でなくても「生きている」ことは「ありがたい」ことと言わなければなりません。われらはどうしても「死ぬ」ことをとんでもないことと思いますが、生きているものは必ず死ぬわけですから、「死ぬ」のはむしろ当たり前のことで、「生きている」ことがとんでもないことであり、「ありがたい」ことです。
 この「いまここに生きている」ことが「ありがたい」のは、そのようなご縁にめぐりあえたことが「ありがたい」ということで、もうひとつ言えば、そのご縁に「生かされている」ことが「ありがたい」ということです。そのご縁を浄土教では本願他力と呼ぶわけですが、いま一度確認しておきたいのがすぐ前に述べたこと、すなわちこの「ありがたい」という思いは、その裏に「こんな自分が」という感覚をかかえているということです。「こんな自分であいすみません」と恥じ入るからこそ、「こんな自分が生かされているのは何とありがたいことか」と思うのです。「ありがたい」は取りも直さず「すみません」であるということをあらためて噛みしめたいと思います。
 法然が「ひとえに善導による」と宣言するほど大きな影響を受けたのが唐の僧・善導です。当然、親鸞も善導の諸著作から多くを学んでいますが、なかでも善導はこれ一つで永遠に輝くと言っていいほど重要なのが「二種深信」とよばれる教説です。「信ずる」ことには二つの面があるとして、そのひとつを「機(われら自身)の深信」、もうひとつを「法(本願他力)の深信」として区別したのです。前に述べましたように、浄土の教えにおいて「信ずる」とは「気づく」ことに他なりませんから、大事な「気づき」に二種類あるということです、「われら自身についての気づき」と「本願他力の気づき」と。

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