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罪と救い(第14章、第15章) [『歎異抄』ふたたび(その97)]

(8)罪と救い(第14章、第15章)


 次の第14章は「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」という異義についてです。唯円はこれに対して「念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと(わが力で)罪を消して、往生せんとはげむにてこそ候なれ」と批判して、これで一件落着というところですが、ただその一方で少し気になることがあります。『教行信証』「信巻」に「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲」として、その三つ目に「転悪成善の益」が上げられているのです。「悪を転じて善と成す」ということは「罪をほろぼす」ことに等しいと考えていいと思われますが、さてこれをどう解すればいいでしょうか。


しかしこれはさほど厄介な問題ではありません。念仏は決して「罪をほろぼす」ために申すものではありません。しかし、念仏申すことでおのずから「罪をほろぼす」ことになるのです。念仏は、むこうから本願の「こえ」(「帰っておいで」)が聞こえてきて、その慶びがこちらから「こえ」(「ただいま」)となって口をついて出るものですが、そのとき「これまでの罪は赦された」という思いを伴っています。あるいは「これまでの罪は罪のままで救われた」という思いがわき起こるのです。これが「罪をほろぼす」ということであり、「悪を転じて善と成す」ということです。


さて次の第15章です。「煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらく」という異義に対して、唯円は「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふとこそ、故聖人の仰せには候ひしか」と答えます。これもこれでよしというところですが、一つだけ念のために申し添えておけば、「さとりをひらく」すなわち「仏になる」のは来生でも、弥陀の心光に摂取され、往生するのは今生ただいまです。この段に親鸞の和讃「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」が参照されていますが、これは唯円も言いますように、信心のときに「さとりをひらく」ということではなく、そのときに弥陀の心光に照らされて「往生の旅がはじまる」と言っているのです。





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