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ぼくらのなかに法蔵がいる [はじめての『高僧和讃』(その160)]

(10)ぼくらのなかに法蔵がいる

 ここで思い起こしたいのが、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であるということです。
 ぼくらは普段「わたしのいのち」は「わたしのいのち」でしかないと思っていますが、でもあるときふと、それは一枚の紙の表であり、ひょいと裏返せばそこは「ほとけのいのち」であることに気づく。これが本願に遇うということですが、そこに立ってみますと、「わたしの願い」の底を突き抜けたところに「ほとけの願い」が姿を見せてきます。「わたしの願い」はどこまでも凡夫としての「わたしの願い」ですから、そこに「ほとけの願い」が潜んでいるなどと言いますと「気は確かか」と言われそうですが、でも現にそんなふうに思えるときがあります。「みんなが救われることがない限り、自分の救いもない」というように思っている瞬間が。
 本願に遇うのはこころの外ではなく内ではないでしょうか。
 ぼくらのなかに法蔵がいると感じるということです。そして法蔵の願いが実はぼくら自身の秘められた願いであるとしますと、それに気づくのは当然であると言わなければなりません。それは表面にあらわれている願いではありませんから、いつも気づいているわけではありませんが、でもあるときふと気づくのです、「あゝ、これが法蔵の願いだ」と。これが「信は願より生ずれば」ということですが、そこからしますと「念仏成仏自然なり」もすっと頭に入ってきます。
 念仏するだけで成仏できるなどというのは仏教の一般通念から大きく外れますから、善導の時代から念仏成仏という教えに対して厳しい論難があったことはこれまでも触れてきました。でも念仏するというのは「ぼくらのなかに法蔵がいる」と気づくことに他ならないとしますと、念仏することがそのまま成仏することであるのはごく自然ではないでしょうか。文字通り成仏するのはいのち終わった後だとしても、もう「法蔵のいのち」を生きているのですから、すでに仏にひとしいではありませんか。

タグ:親鸞を読む
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