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『歎異抄』を聞く(その26) ブログトップ

第2章の第2段 [『歎異抄』を聞く(その26)]

(5)第2章の第2段

 第2段に進みます。ここで信ずるというのはどういうことか、その驚くべきありようが語られます。

 念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆゑは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。

 (現代語訳) 念仏は、本当に浄土に往生できるもとでしょうか、あるいは地獄に落ちるわざでしょうか、そもそもわたしは知りません。たとえ法然上人に騙され、念仏して地獄に落ちたとしましても、なにひとつ後悔はありません。どうしてかといいますと、念仏以外の行で仏になれる身が念仏を申したために地獄に落ちたとしましたら、騙されたという後悔もあるでしょうが、どんな行も及びがたい身ですから、地獄はさぞかしわたしの住処というべきです。

タグ:親鸞を読む
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