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無尽のつながりのなかで [「親鸞とともに」その68]

(11)無尽のつながりのなかで

同時因果とは、因と果を横一列につなげますから、因と果は入れ替わることができます。父母という因とぼくという果の関係は、ぼくという因と父母という果の関係でもあります。父母がいてぼくがいますが、同時に、ぼくがいてぼくの父母がいます(ぼくがいなければぼくの父母はいません)。そして父母とぼくの因果のつながりはそれだけで孤立しているのではなく、無尽のつながりのなかの一つにすぎません。同時因果のつながりは網の目のように広がり、あらゆるいのちがひとつの大きな網として無尽につながりあっているのです。この構図のなかでは、父母とぼくのつながりは「たまたま」のものであり、先ほど言いましたように、ぼくが日本人ではなく中国人として生まれたとしても、つながりの総体として何の支障もありません。

さて、ぼくが日本人として生まれたのは「そうなるべくしてなった」ことと見るときと、ぼくが日本人であるのは「たまたま」のことであると見るときで、どんな違いが出てくるかを考えておきましょう。日本人であることに必然性を見るときは、そのことに縛られているように感じられ、何ごとも日本人であることをもとに考えなければならないような閉塞感がないでしょうか。それに対して日本人であることは偶然であり、ひょっとしたら中国人であったかもしれないと思いますと、もう日本人であることに囚われなくなります。日本人という枠から解放され、広いつながりのなかでのびのびと生きることができるのではないでしょうか。そして相手が何人であるかにかかわらず、ひとつにつながっている喜びを感じることができるのではないでしょうか。

かくして劣等感=優越感の問題に帰ってくることができます。われらがどんな境遇に置かれようと、それはわれらを生かしてくれている無尽のつながりのなかで「たまたま」そうなったと思うことができれば、その境遇がどんなに惨めなものであろうと、それに劣等感を懐くこともなく、その境遇がどれほどすばらしいものであろうと、それに優越感をもつこともありません。

(第6回 完)


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