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弘誓(ぐぜい)に値(もうあ)ふ [正信偈と現代(その151)]

(5)弘誓(ぐぜい)に値(もうあ)ふ

 突然ですが、「しあわせは歩いてこない、だから歩いていくんだね」という歌詞が浮かびました。もう何十年も前の大ヒット曲「365歩のマーチ」の出だしです。幸せは向こうから歩いてこないから、こちらから歩いてつかまえに行こう、というのですが、さて真理も同じでしょうか。向こうから勝手にやってきはしないから、こちらから迎えに出かけなければならない、のでしょうか。世の学者たちは例外なくそう考えているでしょう。そして「一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる」、これが学問というものだと学生に訓示するに違いありません。
 確かに「生きるための真理」はそういうものでしょう。こちらから探しに出なければ手に入らない。しかし「救われるための真理」はどうか。聖道門の人たちはこれも同じだと考え、こちらから真理をつかみ取ろうと修行の旅に出た。しかし、「山のあなたの空遠く、さいはひ住むと人のいふ。噫、われひとゝ尋めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ」ではありませんが、こちらからつかみ取ろうとしても果たしえないことに気づいたのではないでしょうか。それは向こうからやってきて、思いがけず遇うものだと。それが「弘誓に値ひぬれば」ということです。
 そもそも釈迦の成道がそのことを暗示しています。釈迦は6年間の苦行を一旦やめて、ネーランジャラー河で沐浴し、そのほとりの菩提樹の下で瞑想にはいります。きっと釈迦は来し方を振り返ったのではないでしょうか。何とかして真理をつかみ取ろうと苦行を積んできたが、どうしても果たしえなかった。どこに問題があるのだろうと思い巡らしていたそのとき、突然ある気づきがあった。これが菩提樹下の悟りと言われているものです。彼はこちらから真理に会おうと修行の旅をしてきたのですが、何と真理が向こうからやってきて、思いがけなく遇う(値う)ことができたのです。

タグ:親鸞を読む
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