SSブログ
『教行信証』「信巻」を読む(その22) ブログトップ

至心信楽は課されているのではなく [『教行信証』「信巻」を読む(その22)]

(2)至心信楽は課されているのではなく


 あらためて本願の形式を確認しておきますと、かならず「たとひ(もし、の意)われ仏を得たらんに」からはじまり、「正覚を取らじ」で締めくくられます。つまり「わたし法蔵が仏になるにあたり、何々のことを実現したいと思います、もしできなければ仏にはなりません」と誓願しているのです。では法蔵菩薩は第十八願で何を実現したいと誓願しているのかと言いますと、「十方の衆生、心を至し信楽して(至心信楽)わが国に生れんと欲ひて(欲生我国)、乃至十念せん。もし生まれざれば、正覚をとらじ」ということです。十方の衆生が至心信楽し、欲生我国し、乃至十念する、そして往生する、このすべてを実現したいと誓願しているのです。


法蔵は誰に向かってこの誓願をしているかといいますと、世自在王仏です。ところが、うっかりしますと、これは法蔵がわれらに向かって「十方の衆生よ、至心信楽して欲生我国し乃至十念しなさい、そうすれば往生できるようにしよう」と誓願しているかのように読んでしまいます。しかしそうではなく、法蔵は世自在王仏に向かって「十方の衆生が至心信楽して欲生我国し乃至十念するようにし、そうした上で往生させたい」と誓願しているのです。これがわれらに対して「十方の衆生よ」と呼びかけているのでしたら、至心信楽も欲生我国も乃至十念もわれらに課題として与えられていることになります。つまり至心信楽も欲生我国も乃至十念もみなわれら自身がしなければならず、それをクリアできれば晴れて往生できるということです。


しかし法蔵は「十方の衆生が至心信楽して欲生我国し乃至十念するようにしたい」と誓っているのであり、そして「そのようにした上でわが浄土へ往生させたい」と願っているのです。ですから至心信楽も欲生我国も乃至十念もわれらに往生のための課題として与えられているのではありません、あらゆる衆生をみな至心信楽し欲生我国し乃至十念するような身に育てたいと誓われているのです。そのような身にした上で往生させたいと願われているのです。



タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』「信巻」を読む(その22) ブログトップ