SSブログ
「親鸞とともに」その125 ブログトップ

至心に回向したまへり [「親鸞とともに」その125]

(9)至心に回向したまへり

このコントラストを考えるのに最適なのが、やはり第十八願成就文の「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得(願生彼国 即得往生)」という一節でしょう。往生を願えば、「すなはち」(ときをへず、日をへだてず)往生を得るということは、時間が過去から現在、そして未来へと流れるなかにあってはありえないことです。その流れのある一点(いま)に往生を願えば、それからどれほどかの時間がたったのちに往生を得ることができることになります。第十九願の文では、「心を至し発願してわが国に生ぜんと欲ふ」に伴って「もろもろの功徳を修し」とありますが、そのように往生を願うからには、それが実現するよう自ら努力する必要があり、したがって実現するまでにはおのずから時間の経過があります。これが「たてさま」です。

それに対して「よこさま」とは、「ほとけのいのち」という「永遠」に遇うことができた「いま」において願生と得生が同時(即時)であるということです。往生を「願う」ことと「得る」ことが同時という謎を解き明かすのが、同じ第十八願成就文の「至心に回向したまへり」という一句です。これは前にも述べましたように、普通には、われらが「至心に回向して」往生を願うと読むところを、親鸞は如来が「至心に回向したまへる」がゆえにわれらが往生できると読むのです。なぜわれらが往生を願うそのときに往生することができるかというと、われらが願うより前に如来がわれらの往生を願い、そのようにはからってくださっている(至心に回向してくださっている)からだということです。

往生を願えばその場でかなうのはなぜかと言えば、実はもうすでに往生はかなっているからです。これまではそんなこととは露ほども知りませんでしたが、往生を願ったそのとき、そのことに気づくのです、「ああ、もうすでに往生しているではないか」と。これが「よこさま」ということで、時間のなかに突然、永遠の「いま」が開き、「その心すでにつねに浄土に居す」ことに気づくのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「親鸞とともに」その125 ブログトップ