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生死の苦海ほとりなし [親鸞の和讃に親しむ(その44)]

(4)生死の苦海ほとりなし

生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける(第7首)

生死の苦海ほとりなし、久遠劫より沈みたる、われらを乗せて渡すふね、弥陀の弘誓のほかになし

「生死の苦海ほとり(果て)なし」ということは、われらは死ぬまで我執による苦しみから離れることができないということです。我執とは「わたし(わたしのいのち)への囚われ」ですが、われらはこの囚われからすっきり抜け出すことはできません。我執から抜け出すことが悟りであると、あたかもそれが生きているうちにできるかのように説いてある本がありますが、我執から抜け出すことは「わたしのいのち」への囚われから抜け出すことであり、そして「わたしのいのち」への囚われからすっきり抜け出すということは「わたしのいのち」そのものから抜け出すこと、すなわち死ぬことに他なりません。かくしてわれらは死ぬまで「わたしのいのち」に囚われたまま生きるしかありませんから、「生死の苦海ほとり」なしです。

そんなわれらをそのままで、すなわち「わたしのいのち」に囚われたままで乗せてくれるのが「弥陀弘誓のふね(ほとけのいのち)」です。

「弥陀弘誓のふね」は「これから」乗り込むのではありません、実は「もうとうのむかしから」乗っているのです。ところがこれまでそれにまったく気づかずに過ごしてきたのです(それが「ひさしくしづめるわれら」ということです)。しかしあるときふと、「ああ、もう弘誓のふねの上にいるのだ」と気づかされる。そのとき同時に「わたしのいのち」に囚われていることにも気づかされており、「わたしのいのち」に囚われたままで「ほとけのいのち」に生かされているという安心(あんじん)をえることができるのです。このように「わたしのいのち」への囚われに気づくことと、「弥陀弘誓のふね」の上にいることに気づくことはひとつで、それが「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん」(本願成就文)ということです。


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