SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その207) ブログトップ

大原談義 [はじめての『高僧和讃』(その207)]

(10)大原談義

 次の和讃です。

 「源空智行の至徳には 聖道諸宗の師主も みなもろともに帰せしめて 一心金剛の戒師とす」(第103首)。
 「源空智行にすぐれしに、聖道諸師はみなともに、浄土の教えに帰敬して、師としてあつく敬いぬ」。

 法然は「一心にもはら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業となづく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり」の一文に眼を覚まされ、まもなく山を降りて東山吉水の地に草庵をむすんでは、道俗の人々に専修念仏の教えを説きはじめましたが、そのことは風の便りとして南都北嶺に伝わっていったに違いありません。そして、あの智も行も優れた法然がいったいどのようなことを説いているのだろうと興味を引いたことでしょう。
 かくして有名な大原談義が行われることになります。
 後に天台座主となる顕真(けんしん)が法然を大原の三千院に招き、法然の説く専修念仏の教えについて討論会を催したのです。その場には重源(ちょうげん、焼けた東大寺再建の勧進役を務める)とその弟子たちや、顕真をはじめとする天台の高僧たちが集まり、その人たちを前に法然は聖道門の教えと浄土門の教えを比較して、末法の世にあっては浄土門がふさわしいことを諄々と説きます。参会の衆は法然の理路整然とした話に深く感動したそうです。伝記というものの常として多少の脚色はされていると思いますが、法然の投じた一石が波紋を広げている様子をうかがうことができます。
 法然が聖道門に弓をひきながら、少なからぬ「聖道諸宗の師主」から尊敬されたのは、ひとえにその「智行の至徳」ゆえに違いありません。
 法然は山を降りてからも僧としての戒律は守り、清僧としての生涯を貫きました。しかし、彼は弟子たちに向かって自分のようにしなさいと言うことはありません、「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。…ひじり(聖)で申されずば、め(妻)をまうけて申べし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行(るぎょう)して申すべし。流行して申されずば、家に居て申すべし。自力の衣食にて申されずば、他人にたすけられて申すべし。他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし」と融通無碍です。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その207) ブログトップ