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こんなすばらしい薬が [はじめての『高僧和讃』(その57)]

(15)こんなすばらしい薬が

 さて煩悩という病に気づいていない人に、「こんなすばらしい薬がありますよ」とすすめても気分を悪くさせるだけでしょう。「わたしはそんな病気ではありません」と言われるのが落ちです。そもそもこの病はできれば気づきたくないものです。そこから無意識のうちに見ないで済ませようという心的機制が働き、眼のふれないこころの奥底にしまわれているのです。にもかかわらず、「これはすばらしい薬です」などと言われたら、折角見ないようにしているものを目の前に突き付けられるような不快を覚えるに違いありません。
 では「これほどすばらしい薬はありません」と人にすすめることには何の意味もないのでしょうか。ただただ本人が病人であることに気づき、すばらしい薬があることに気づくのを待つしかないのでしょうか。「その通り」と言うしかないのですが、しかしそう言ってすますことができないのが人間です。自分が気づいたことを自分のなかにおさめておくことができず、まだ気づいていない人に伝えたくなるのです。どうしてそんな気持ちになるのかよく分かりませんが、気づきの喜びはおのずから外にあふれだしていくと言うしかありません。
 しかし、先に言いましたように、知ることとは違って「こんなふうにすれば気づけますよ」と指し示すことはできず、ただ自分が経験したことを一部始終報告するだけです。こんなふうに伝えたからといって相手が気づくわけでもないと思いながら。聞く方は聞く方で自分には縁のない話と聞き流すだけかもしれませんが、それでも、そんな気づきの世界があるのだという認識はもつことができます。そして、やがてその人にも気づきが訪れたとき、「あゝ、これがあのとき聞いたことなのか」と納得することでしょう。
 念仏はやはり人にすすめざるをえず、そしてそれにはそれなりの意味があると言わなければなりません。

                (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
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