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苦しみの元は煩悩 [『歎異抄』ふたたび(その39)]

(6)苦しみの元は煩悩

 横道にそれるように見えるかもしれませんが、ここで四諦説(四つの真理)を考えておきたいと思います。釈迦の教説を要領よくまとめたものとして四諦説は重要ですが、短く要約されているがゆえに誤解を生みやすいとも言えます。第一の真理とされるのが、「生きることはすべて苦しみである」という苦諦です。この「すべて」は文字通り例外なくということで、生きることには苦もあれば楽もあるのではなく、みな苦であると言うのです。ちょうど人間には善人もいれば悪人もいるのではなく、みな一様に悪人であることと同じで、みな悪人であるというのが気づきであるように、みな苦しみというのもひとつの気づきです。
 さて第二の真理は「苦しみの元となっているのは煩悩である」という集諦(じったい)です。煩悩というのは、先に見ましたように、我執すなわち「われへの囚われ」「わがものへの囚われ」で、われらは「われ」を何の根拠もなくすべての第一起点として最上位に置き、そしてさまざまなものを「わがもの」と思い込み執着しているということで、これがすべての苦しみの元であるというのです。ここから第三の真理として「煩悩を滅することにより苦しみのない涅槃に至る」という滅諦が出てきます。苦しみの元が煩悩ですから、その煩悩を滅すれば苦しみがなくなるというのは論理的必然とも言えますが、実はここに四諦説の最大のネックがあります(第四の道諦は後でふれます)。
 集諦は普通「苦しみの因は煩悩である」と表現されますが、それを「苦しみの元は煩悩」と言ってきたのには理由があります。苦しみの因と言いますと、それをすぐ苦しみの原因と理解して、原因である煩悩がなくなると結果としての苦しみがなくなると受け取ってしまいがちですが、煩悩と苦しみの関係は原因・結果ではなく、縁起であるということを言いたいのです。すなわち煩悩を縁として苦しみが起るということですが、この縁起においては、煩悩と苦しみは生きることにおいてひとつで切り離すことができません。煩悩のあるところかならず苦しみがあり、また苦しみのあるところかならず煩悩がある、それが生きるということです。
 生きることと苦しむことと煩悩をもつことはひとつであるということです。としますと、煩悩を滅すれば確かに苦しみはなくなりますが、そのとき生きることそのものが消えてなくなります。

タグ:親鸞を読む
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