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「わたしの心」と「ほとけの心」 [『教行信証』「信巻」を読む(その96)]

(13)「わたしの心」と「ほとけの心」

しかし「疑蓋まじはることなし」とはどういうことでしょう。「わたし」が本願の真偽を捉えようとしますと、かならず「疑蓋まじはる」ことになるとしましたら、いったいどのようなときに「疑蓋まじはることなし」という事態が起こるのでしょう。答えはただ一つ、「わたし」が本願を捉えるのではなく、本願が「わたし」を捉えたときです。本願が「わたし」を捉えると言いますのは、本願という「ほとけの心」と「わたしの心」が「ひとつ」になったということです。少し前のところで上げました「火と木の譬え」で言いますと、「ほとけの心」(火)が「わたしの心」(木)にやってきて、「わたしの心」に火をつけ、その火が「わたしの心」を焼いて、焼かれた「わたしの心」は「ほとけの心」となるのです。

「ほとけの心」と「わたしの心」が「ひとつ」になること、これが「一心」であり、そしてそれが真実の信心です。そこにおいてはもはや「疑蓋まじなることなし」です。

さてしかし、これで話が終わりとはいきません。「ほとけの心」が「わたしの心」になり、「わたしの心」と「ほとけの心」は「ひとつ」であるとは言え、「わたしの心」が消えてしまうわけではないからです。「わたしの心」は依然として「わたしの心」のままで、と同時に「ほとけの心」と「ひとつ」になっているのです。そして依然として「わたしの心」のままという点では疑いの心が残っているということであり、「ほとけの心」と「ひとつ」であるという点ではもはや「疑蓋まじはることなし」であるということ、これをどのように呑みこめばいいのでしょう。

これは「煩悩即菩提」(あるいは「生死即涅槃」)とまったく同じ事情で、煩悩を滅すること(そんなことができる道理がありません)が菩提であるのではなく、煩悩を煩悩と気づいていることが菩提であるように、「わたしの心」は「疑いの心」であると気づいていることが、「ほとけの心」と「ひとつ」になることに他なりません。われらはつねに疑いの心を起こしながら、これは「わたしの心」(自力の心)が為せるわざであると気づいていること、これが「ほとけの心」(他力の心)と「ひとつ」となることです。

(第9回 完)


タグ:親鸞を読む
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