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機の深信と法の深信はひとつ [『教行信証』「信巻」を読む(その53)]

(2)機の深信と法の深信はひとつ


そこでもういちど「本願を信ずる」とはどういうことかという原点に立ち返らなければなりません。「信巻」の序の、さらにその冒頭に「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」とあり、ここに信の本質が凝縮されていると言いました。だからこの一文が腹の底から了解できたら、もう「信巻」を読む必要がないと。これは、本願を信ずるとは、こちらにいるわれらがあちらにある本願に信を与えるなどということでは断じてないということです。そうではなく本願が名号の「こえ」となってわれらにはたらきかけ、われらのなかにやってきていることであり、そのようにして本願と信心はひとつになっていること、これが本願を信ずるということです。


法は信じられる本願で、機は信じるわれらですが、本願の信においては機と法が別々にあるのではなく、ひとつになっているということです。機とは「わたしのいのち」で、法は「ほとけのいのち」に他なりませんから、本願の信においては「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」が一体となっているということになります。さて「わたしのいのち」は「現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」と言わなければなりません。これが機の深信です。そして「ほとけのいのち」はといいますと、「衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得」と言わなければなりません。これが法の深信です。かくして機の深信と法の深信はひとつであるということになります。


ためしに法の深信はあるが機の深信はないというのはどういうことかを考えてみましょう。「かの願力に乗じて、さだめて往生を得」と信じていますが、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」とは信じていないということです。この場合「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」は別々になっており、どこか離れたところにある「ほとけのいのち」を仰いでいますが、足元の「わたしのいのち」には眼が向いていません。これでは本願が「いまここ」にやってきて信心とひとつになっているとは言えず、したがって真実の信心ではないと言わなければなりません。



タグ:親鸞を読む
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