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信心の人は本願の人 [「信巻を読む(2)」その7]

(7)信心の人は本願の人

そこで如来回向の無上菩提心、他力の回向発願心の登場です。横超の菩提心とは何か、もう一度その原点に戻りましょう。弥陀の本願(「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」)が、名号(「南無阿弥陀仏」の「こえ」)となってわれらのもとに届けられ、それをわれらがしかと聞受したところが信心すなわち菩提心です。すなわち本願がわれらのもとにやってきてわれらの信心となるのです。われらが本願を信受するということは、本願がみずからわれらの信心となるということであり、本願はみずからわれらの信心となることによってわれらを救うのです。

さて、本願がわれらの信心となるということは、信心を得た人は本願の人に他ならないということです。すなわち信心の人とは「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」をわが願いとして生きる人であり、第十八願のことばで言えば、「もし(一切衆生が)生れずは、正覚を取らじ(若不生者、不取正覚)」という誓いをわが誓いとして生きる人です。ここまできまして、「願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」ということばが正確に理解できます。願作仏心すなわち菩提心を得た人(如来から賜った人)とは本願の人であり、「もし生れずは、正覚を取らじ」をわが誓願として生きる人ですから、もうすでに度衆生心を生きているということです。

願作仏心と度衆生心はコインの表と裏の関係にあり、願作仏心のあるところ必ず度衆生心があります。

ここから往相と還相の関係についてきわめて大事な結論が出てきます。往相・還相ということばそのものに、「まず往相、その後に還相」という意味が染み込んでいます(それは『浄土論』の「入」と「出」でも同じです)。まず往き、しかる後に還るしかないからです。かくして往相と還相は時間的に切り離されることになり、また必然的に「ここ(娑婆)」と「かしこ(浄土)」が空間的に分離されます。すなわち、まず「ここ」から「かしこ」へ往き、後に「かしこ」から「ここ」に還ってくるという構図です。


タグ:親鸞を読む
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