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いのちは誰のものでもない [「信巻を読む(2)」その123]

(14)いのちは誰のものでもない

本願の信心(気づき)は「いま」おこりますが、しかし実はそれはもうとうの昔にすでにおこっていたということについて、『涅槃経』の所説から自由に、想像の翼を大きく広げてみたいと思います。

われらはいまそれぞれの「わたしのいのち」を生きていますが、そのもとはといいますと「ほとけのいのち」です。「ほとけのいのち」の海のなかにそれぞれの「わたしのいのち」が生まれたのです(そしていずれまた「ほとけのいのち」の海に帰っていきます)。ところがわれらは「わたしのいのち」のもとは「ほとけのいのち」であることをすっかり忘れ、忘れたこと自体を忘れています。そしてこの「わたしのいのち」はもとから「わたしのいのち」であると思い込んでいます。われらは「わがもの」という観念に囚われているのです。

ところがあるとき、「わたしのいのち」はもともと「わたしのいのち」などではなく、誰のものでもないことに気づかされます。

ルソーが土地はもともと誰のものでもなく、みな勝手に柵を廻らし「これはオレのものだ」と宣言しているだけだと喝破してくれましたが、そのように「いのち」もまた誰のものでもなく、それぞれがこれは「わたしのいのち」だと思い込んでいるだけだと気づかされるのです。この気づきは「わたしのいのち」がおこすことはできず、ただ「ほとけのいのち」からおこされます(「わたしのいのち」はそのことに気づかされます)。これが「ほとけのいのち」に遇うということであり、そしてそれが本願に気づくことに他なりません、本願とは「ほとけのいのち」の願いですから。

さてこのように「わたしのいのち」のもとは「ほとけのいのち」だという気づきは「いま」おこりますが、そのとき思い至りますのは、実はずっと昔からそのことに気づいていたはずだということです。何しろ「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」の海のなかに生まれたのですから。ところがそのことをすっかり忘れ果てていたのですが、あるときふと蘇るのです。これが本願の信心(気づき)ですから、それは「いま」おこりますが、実はもうとうの昔におこっていたことなのです。

(第10回 完)


タグ:親鸞を読む
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