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自由とは [『ふりむけば他力』(その61)]

(12)自由とは

 さてそうとしますと、先の「宿業を認めれば人間の自由はどうなるのか」という問いにどう答えればいいのでしょう。これはしかしもうすでに答えが出ていると言わなければなりません。罪を犯すこともでき、犯さないこともできるなかで、彼は罪を犯すことを選んだのですから、その意味で彼は間違いなく自由です。しかし同時に、彼は宿業にはからわれて罪を犯すしかなかったのですから、その意味では自由ではありません。われらは自由であり、同時に自由ではないと言うしかありません。ここからわれらの自由はどのようなものであるかがほのかに見えてきます。
 ぼくの頭には『西遊記』の孫悟空が浮びます。彼はお釈迦さまに「おまえはわたしの掌の上から抜け出られるか」と言われ、「なにを、俺さまはひとっ跳びで世界の果てまで行くことができるぞ」と豪語します。そして筋斗雲に乗って天がけていきますと、まもなく雲の間から大きな五本の柱が見えてきます。彼は、これが世界の果てに違いないと思い、そこにやって来た証拠としてその柱のひとつに自分の名を記し、ご丁寧におしっこまでひっかけてきます。ところが、ふと我にかえりますと、何と巨大な柱に見えたものはお釈迦さまの五本の指であり、そこに彼の名が書かれています。そしてひっかけたおしっこの湯気が立ち昇っているではありませんか。
 こんな記憶も蘇ります。もうかなり前になりますが、巨大なクルーズ船でバルト海を横切ったことがあります。もういまではそれほど珍しくないのかもしれませんが(コロナ騒動の中で注目されました)、当時のぼくにはとんでもない船に見えました。乗船しますと、目の前に都市の一角に迷い込んだかと思えるような街路が広がり、両側にはおしゃれなお店がずらりと並んでいます。乗客は思うがまま散歩し、食事し、劇場に出かけ、プールで泳ぐこともできるという具合で、もう巨大クルーズ船の乗っていることを忘れさせてしまいます。
 われらはもう思うがまま自由自在に振る舞うことができますが、でもそれらはすべてお釈迦さまの掌の上のこと、これがわれらの自由です。

                (第5章 完)

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