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菩提心 [「信巻を読む(2)」その31]

(7)菩提心

こちらに「わたしの心」があり、むこうに「ほとけの心」がある場合、「わたしの心」が「ほとけの心」に向かって往生を願うという構図になりますが、これではかならず往生できるという保証はどこにもありません。どれほど一所懸命に発願回向しても、ひょっとすると往生できないかもしれないという疑心から離れることができません。ここで再度先の「火と木の譬え」に戻りますと、火すなわち「ほとけの心」が、木すなわち「わたしの心」に点いた状態が信心でした。このとき、もう「ほとけの心」は「わたしの心」を離れることがありませんから、「わたしの心」と「ほとけの心」は「一心」になっています。ですから往生を願うそのとき「すでにつねに浄土に居す」のであり、これが「如実修行相応」ということです。

曇鸞は如実修行相応」とならないのは何故かと言えば、如来を実相身であると同時に為物身として感じることがないからだと難しい言い方をしていました。これを平たく言い直しますと、実相身としてあるだけでしたら「ほとけのいのち」はあちらに超然としてあり、こちらの「わたしのいのち」と別々になっているということです。同時に為物身であってこそ「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」のなかに来生しており(「従如来生」です)、「わたしのいのち」と「一心」になっているということです。だからこそ「よく衆生一切の無明を破し、よく衆生一切の志願を満てたまふ」のです。

さて親鸞は「一心すなはち金剛真心の義、答へをはんぬ」と言った後、言い忘れたことがあるかのように、『摩訶止観』から「菩提心」の注釈を引いていますが、これも「一心」ということを「菩提心」ということばから裏づけようとしていると思われます。すなわち菩提心の元の梵語は「ボーディ・チッタ」で、「ボーディ」は「仏の智慧(菩提)」で「チッタ」は「心」ですから、「仏の智慧を求める心」という意味ですが、智顗が「心」を「慮知」すなわち「われらの分別知」であるとしていることに注目して、菩提心とは「ほとけの心(菩提)」と「わたしの心(慮知)」とが「一心」になっていることだと了解しているのです。


タグ:親鸞を読む
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