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報恩の念仏 [『末燈鈔』を読む(その239)]

(14)報恩の念仏

 蓮如の「おふみ(御文章)」が思い起こされます。至るところに「仏恩報謝の念仏」が出てきます。例えば「他力の信心ということを、しかと心中にたくわえられ候て、そのうえには、仏恩報謝のためには、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に念仏をまうさるべきばかりなり」(第1帖、第5通)。これを見ましても、まずは「他力の信心」をしかと定め、その上で「仏恩報謝のためには、行住坐臥に念仏をまうさるべき」と言われています。
 この言い回しも、念仏は仏恩報謝の〈ために〉申すものであるとされ、念仏が何かの「ためにしなければならない」もの、「手段」としての念仏と受け取られかねません。親鸞は「御報恩のため」と言い、蓮如は「仏恩報謝のため」と言いますが、改めて「事前と事後」の区別をきちんとおかなければなりません。念仏はあくまで本願に遇えた嬉しさからほとばしり出るものであるのですが、ただそれが事後的には(ふりかえってみれば)「御報恩のため」になっているということです。
 報恩ということについて少し考えておきましょう。以前どこかで「ありがとう」という日本語のおもしろさについて述べたことがあります。他の言語では“Thak you”にせよ“Merci”にせよ“Danke”にせよ“謝謝”にせよ、みな一人称の主語「わたし」が省略されています。ところが「ありがとう」には「わたし」はありません。あえて主語を探せば「それは」でしょうか、「そんなことをしていただくのは有り難い(あることが難しい)」と言っているのです。
 何かをしていただいて嬉しいとき、思わず「ありがたい」「ありがとう」と言います。これは「わたし」があなたに感謝しなければならないと思って言っているのではなく、嬉しさがおのずと口をついて出てくるだけです。「わたし」が感謝しなければとなったときには、そこに何か余分なものがつけ加わっています。


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