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本文11 [はじめての『尊号真像銘文』(その62)]

(9)本文11

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

 さて、本文10につづいて、『浄土論』に「我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応(われ修多羅真実功徳相によりて、願偈総持を説きて仏教と相応せり)」とあり、さらに「観彼世界相 勝過三界道 究竟如虚空 広大無辺際(かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし)」とある部分についての解説です。

 「我依修多羅真実功徳相」といふは、「我」は天親論主のわれとなのりたまへる御ことばなり。「依」はよるといふ、修多羅によるとなり。「修多羅」は天竺のことば、仏の経典を申すなり。仏教に大乗あり、また小乗あり。みな修多羅と申す。いま修多羅と申すは、大乗なり、小乗にはあらず。いまの三部の経典は大乗修多羅なり。この三部大乗によるとなり。「真実功徳相」といふは、「真実功徳」は誓願の尊号なり。「相」はかたちといふことばなり。「説願偈総持」といふは、本願のこころをあらはすことばを「偈」といふなり。「総持」といふは智慧なり、無碍光の智慧を総持と申すなり。「与仏教相応」といふは、この『浄土論』のこころは、釈尊の教勅、弥陀の誓願にあひかなへりとなり。「観彼世界相勝過三界道」といふは、かの安楽世界をみそなわすに、ほとりきわなきこと虚空のごとし、ひろくおほきなること虚空のごとしとたとへたるなり(本文12に続く)。

 「われ修多羅真実功徳相によりて」の「我」とは、論主である天親菩薩が「わたしが」と名乗られているのです。「依」は「よる」ということ、修多羅によるということです。「修多羅」はインドのことばで、仏の経典のことです。仏教には大乗と小乗がありますが、どちらの経典もみな修多羅と言います。いま天親菩薩が修多羅と言われていますのは、大乗の経典で、小乗ではありません。浄土三部経は大乗の修多羅です。この大乗の三部経によるというのです。「真実功徳相」の「真実功徳」とは、誓願の名号のことです。「相」とは「かたち」ということです。「願偈総持を説きて」の「偈」とは、本願のこころをあらわすことばのことです。「総持」とは智慧のことです。無碍光の智慧を総持というのです。「仏教と相応せり」とは、この『浄土論』に説くところは、釈尊の教え、弥陀の誓願にあいかなっているということです。「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」というのは、かの安楽国を見てみますと、際限のないこと虚空の如く、広く大きいこと虚空の如しとたとえているのです。

タグ:親鸞を読む
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