SSブログ
『ふりむけば他力』(その112) ブログトップ

コインの表と裏 [『ふりむけば他力』(その112)]

(8)コインの表と裏

 あらためて「わがもの」の物語とは何かを確認しておきますと、「これは〈わがもの〉である」という観念にもとづいてわれらの生活が成り立っており、われらの自由や独立も、そして法律や国家もそれがあってはじめて成立するという信念のことです。では「もう一つの物語」とは何かといいますと、「わがもの」などというものはなく、「われ」も「かれ」も大いなるいのちのなかでひとつにつながっているというものです。釈迦が縁起や無我ということばで言おうとしたのは実はこの「もう一つの物語」です。これは普通、真如とか実相といったことばで表されることから、世界のあるがままの姿(物語の外部にある事実そのもの、生の事実)を指すと思ってしまいますが、これまたひとつの物語でしかありません。
 何度も言いますように、世界のあるがままの事実などどこを探してもありません。あるのは「物語られた事実」だけです。ただそのとき、「物語られた事実」であることの気づきがあるかどうか。もしその気づきがなければ、目の前の世界(それは実は「わがもの」の物語の世界であるわけですが)があるだけです。しかし「物語られた事実」の気づきがあれば、「わがもの」の物語(「われ」の物語)とともに、「つながり(縁起)」の物語(「無我」の物語)も同時にあります。「わがもの」の物語があるところ、かならず「つながり(縁起)」の物語があります。われらは「わがもの」の物語の内部にいるという気づきがあれば、同時に「つながり(縁起)」の物語があることに気づいているということです。
 因みに、浄土の教えにおいて二種深信と言われるのはこのことです。これは善導にその源がありますが、われらの信には二つの面があり、一つは「われらはみな我執のなかにある」という信で、これを「機の深信」と言い、もう一つが「われらはみな本願に生かされている」という信で、これは「法の深信」とよばれます。前者の「機の深信」が「わがもの」の物語の気づきであり、後者の「法の深信」が「つながり(縁起)」の物語の気づきを浄土教的に言い表したものです。大事なことは、この二つの面はコインの表裏のように切り離すことができないということです。
 このように「わがもの」の物語と「縁起」の物語はコインの表裏の関係にあり、一方のあるところ、かならず他方が伴いますから、どちらかが真で、どちらかが偽であるということにはなりません。もしこの二つが同じ平面上にあるのでしたら、一方は他方を否定するという関係になりますが(なぜなら、両者はあい反するものですから)、両者はコインの表裏として互いに他を必要としていますから、一方が真でしたら他方も真ですし、一方が偽でしたら他方もおのずから偽となります。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その112) ブログトップ