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本文14の現代語訳 [『唯信鈔文意』を読む(その110)]

(2)本文14の現代語訳

 「随縁雑善恐難生(ずいえんぞうぜんくなんしょう)」の「随縁」とは、衆生のそれぞれの縁に従って、それぞれの心のままに、さまざまな善をなしてそれを極楽往生のために回向するのです。これはすなわち仏教の八万四千の教えです。これらはみな自力の善根を回向するのですから、それでは真実の浄土には生まれないと嫌われますので、「恐難生」と言うのです。「恐」は「おそれる」ということ、雑善や自力の善で真の報土に生まれるだろうかと恐れるのです。「難生」とは「生まれがたい」ということです。「故使如来選要法(こしにょらいせんようほう)」と言いますのは、釈迦如来があらゆる善の中から名号を選び取り、五濁悪時の悪世界の悪衆生、邪見無信のものに与えられたと知らなければならないということです。これを「選」と言います。広く選ぶということです。「要」は「専ら」ということ、「求める」ということ、「契る」ということです。「法」とは名号です。「教念弥陀専復専(きょうねんみだせんぶせん)」の「教」は「教える」ということ、「教え」ということです。釈尊の教え、勅命です。「念」は、心に思い定めて、あれこれと働かない心です。すなわち、選択本願の名号をひたすら専ら修すべしと教えてくださっているのです。「専復専」のはじめの「専」は一つの行を修すべきということです。「復」は「また」ということ、「重ねる」ということです。そして「また専」というのは、一心であれということです。一つの行、一つの心を、専らにということです。「専」は「一つ」ということです。専らということは、二心がないようにということです。あれこれと移る心がないことを「専」というのです。このように一つの行、一つの心の人を摂取して捨てられないから阿弥陀と名づけられたのだと、光明寺の和尚・善導和尚が言われました。この一心とは横超の信心のことです。「横」とは「よこさまに」ということです。「超」は「超えて」ということ。他のどんな法よりも優れて、すみやかにこの生死の海を超えて仏となるという結果に至るのですから「超」と言うのです。それは大悲誓願の力だからこそです。この信心は、直ちに光明に摂取されますから、金剛心となるのです。

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