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救いに「わたし」も「あなた」もない [『一念多念文意』を読む(その51)]

(9)救いに「わたし」も「あなた」もない

 なぜ法蔵は「生きとし生けるものすべてを救おう」という誓いを立てたのか、もっと言えば、そもそも法蔵とは誰なのかに答えなければなりません。そこで改めて第十八願を見てみましょう。「あらゆる衆生がこころから信じてわが浄土に生まれたいと思い、十回もわが名を称えてわが浄土に生まれることができなければ、わたしは仏になりません」。
 ミソは最後の「わたしは仏になりません」にあります。仏になるとは救われるということですから、あらゆる衆生が救われなければ、わたしも救われませんと言っているのです。これは法蔵の意志を表明しているというよりも、救いというものはそのようなものだと宣言していると言うべきでしょう。周りが救われていないのに、自分が救われるということはありえないということ、みんなが救われてはじめて自分も救われるということ、救いはそういうものとしてしかないということです。
 救いには「わたし」も「あなた」もないということ。
 そうだろうか、「あなた」は残念ながら救われていないが、さいわい「わたし」は救われたということはいくらでもあるではないかと言われるかもしれません。先の大津波でも、道路一本の差で、あの家は流されたが、うちは助かったということがあるでしょうし、戦場で、隣にいた戦友が銃弾に倒れたが、自分は無事だったということもあります。
 そんな例はいたるところに転がっているでしょうが、しかしそれは救いとはまた別のことです。といいますのも、津波や戦争で多くの人が亡くなったなかで自分は助かった、そのことに罪の意識をもちつづけている人がいます。その人は、いのちは助かったけれども、しかし救われていません。
 救いとは何でしょう。

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