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宿命と宿業 [『ふりむけば他力』(その54)]

(5)宿命と宿業

 宿命も宿業も、すべてはあらかじめ定められているとすることでは共通しています。でも、「これは宿命だ」と思うときと、「これは宿業による」と感じるときをよくよく比べてみますと、そこには微妙ですが、しかし本質的な違いが見えてきます。「これは宿命だ」と思うのはどんなときかといいますと、いま自分が置かれている状況(たいていは辛い状況)を何とかして納得し、こころと折り合いをつけようとしています。この状況を生んだのは自分の所為でもないし、かといって他人の所為というわけでもない、誰の所為でもなく、もうそうなるべく定められていたのだと諦め、「これは宿命なんだ」とつぶやくのです。
 何かの本で読み、いやに印象に残っている話があります。あるムスリムのウエイターが注文された料理をテーブルに運ぼうとして、足を滑らせ持っていたお皿を落としてしまった、そのときの彼のセリフです、「この皿はアッラーの思し召しによってこのようにして割れるように定められていたのだ」。彼は不用意に皿を割ってしまった責任を回避しようと、「これはこの皿の宿命である」と主張しているのです。そのとき彼は自分の身に起ったことと、それをもたらした宿命との間に必然的なつながりを感じているわけではありません。とにかくいま自分が置かれている状況は自分の所為ではなく、宿命でそうなるべく定められているのだと言い逃れることができればいいのです。
 一方、宿業を感じるとはどういうことかといいますと、自分がしたことは間違いなく自分が自分でしたことだが、それがそっくり何か見えない大きな力でそのようにはからわれていると感じているのです。そのとき自分とその見えない力はひとつにむすびついていると感じます。自分がしたことの責任はその見えない力にあると言えなくはありませんが、でもその力と自分とはひとつですから、それはやはり自分の責任と言わなければなりません。「これは宿業だ」と感じている人は、自分の責任を逃れようとしているのではありません。紛れもなく自分の責任であると思いつつ、それはしかし何か大きな力のはからいであると感じているのです。

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