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ダイモンの声 [親鸞の手紙を読む(その132)]

(9)ダイモンの声

 カントの定言命法も、むこうから理性の命令として聞こえてくるのですから、ソクラテスのダイモンの声と似ているとも言えます。しかし定言命法は一般的な命令であるのに対して、ダイモンの声は個別的な禁止です。定言命法はたとえば「嘘をつくべからず」と一般的に命じますが、個々の状況においてどう行動するべきかはそれぞれがその場で独自に判断しなければなりません。もちろん「嘘をつくべからず」という定言命法にのっとり判断するのですが、おかれた状況により、さまざまな具体的姿をとるでしょう。
 理性の命令は普遍的でなければなりませんから、おのずから一般的にならざるをえませんが、ぼくらの行動はそれぞれに異なった状況においてなされますから、一般的な命令を個別の状況に適用しなければならないのです。カント倫理学はつまるところ、それぞれの状況において、各自の利害得失を離れて理性の命令にしたがって行動すべし、ということであり、もっと約めれば「自由であれ」ということです。カント的に言えば、理性の命令に従うことが自由であるのですから。
 一方、ダイモンの声は、個別の状況において、ソクラテスの個々の行動について「するな」と命じます。『ソクラテスの弁明』にこんな一節があります、「わたしには、なにか神からの知らせとか、ダイモンからの合図とかいったようなものが、よくおこるのです。…これは、わたしには、子供のときからはじまったもので、一種の声となってあらわれるのでして、それがあらわれるのは、いつでも、わたしが何かをしようとしているとき、それをわたしにさしとめるのでして、何かをなせとすすめることは、いかなるばあいにもないのです。そして、まさにこのものが、わたしに対して、国政にたずさわることに反対しているわけなのです」と。
 何かをしようとするときダイモンから禁止の声がかかるのですから、裏返せば、禁止の声がかからない限り、そのままことを進めればいいということになります。そのようにしてダイモンの声に護られているということです。

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