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第9章の後段 [『歎異抄』を聞く(その92)]

(5)第9章の後段

 第9章の後段です。

 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為(しょい)なり。久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)にさふらふこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころのなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんと、あやしくさふらひなましと、云々。

 (現代語訳) また浄土へ急いで往きたいという気持ちがなく、ちょっとした病気でも死ぬのではないかと心細く思うのも煩悩の所為です。これまでずーっと生々流転してきた苦悩の故郷は捨てがたく、まだ往ったことのない安養の浄土を恋しく思わないのは、まことによくよく煩悩が盛んだからこそです。名残惜しく思いながらも、娑婆の縁が尽きて、力なくこの世を終わらなければならない時に、あの世に行けばいいのです。急いで浄土に往こうという気持ちのないものを特に憐れんで下さっているのですから、それにつけても、いよいよ弥陀の大悲大願は頼もしく思われ、往生は確実と思えるのです。逆に、嬉しくて仕方なく、急いで浄土へ往きたいというのは、煩悩がないのではないかとあやしく思うのではないでしょうか」と言われたことでした。


タグ:親鸞を読む
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