SSブログ
「『正信偈』ふたたび」その94 ブログトップ

行者まさしく金剛心を受けしめ [「『正信偈』ふたたび」その94]

(6)行者まさしく金剛心を受けしめ

光明・名号が与えられることと本願の信心をえることは同じであるということ、ここに意を注ぎたいと思います。ここに信心が金剛心となる根拠があるからです。本願を信じることと光明・名号が与えられることが別であるとしますと、その信心には確たる根拠がなくふわふわ宙をただよっていると言わなければなりません。「あなたはどうして本願を信じるのか」と問われたときに、それに答えるべきことばがありません。「本願が説かれている経典を信じるから」と答えたとしても、「ではどうしてその経典を信じることができるのか」という問いが突きつけられるに決まっています。

このことを考えようとするとき頭に浮ぶのが『歎異抄』第2章の親鸞のことばです。おそらくは、「どのようにすれば本願を信じられるのでしょう、何か特別な方法があるのではないでしょうか」という疑いの思いを懐きつつ親鸞の前に居並ぶ関東の弟子たちに親鸞はこう言います、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。そしてさらに驚くべきことばが親鸞の口から出てきます、「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」と。

この問答を「どうして本願を信じるのか」という問いに「それは法然聖人の仰せだから」と答えているとだけ受けとめれば、それにはさらに「どうして法然聖人の仰せを信じることができるのか」と問いが突きつけられるのは必至ですし、その問いに「法然聖人にだまされても悔いはない」と答えるのだとしますと、これはもう狂信と言わなければなりません。何の根拠もなく、ただもう法然聖人の行かれるところには火のなか水のなかでもと言っているようなものですから。しかしこの親鸞のことばがわれらに強い衝撃を与えるのは、そこに本当の信心というものの本質が宿っているからです。

さてしかし本当の信心の本質とは何か、そしてそれは先の親鸞のことばのどこに現われているのでしょう。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『正信偈』ふたたび」その94 ブログトップ