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往相と還相 [「『正信偈』ふたたび」その78]

(9)往相と還相

さて最後の第五・六句、「かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり」です。これは第一句で「往還の回向は他力による」と言われていたなかの還相の回向に当たります。浄土へ往く相すなわち往生することが往相で、浄土から穢土へ還る相すなわち利他教化することが還相ですが、往相も還相もみな如来の回向であり他力であると言われていました。その還相のことがここで言われているのですが、さて考えなければならないのは、往相と還相の時間的な関係です。しばしば、というより、もうほとんどの場合と言った方がいいと思われますが、往相が終わった後に還相がはじまると考えられています。しかしそれでいいのだろうかということです。

「かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり」という言い回しそのものが、往相の後に還相と言っているように思えます、まず「無量光明土に至り」、しかる後に「諸有の衆生みなあまねく化す」のだと。しかし気をつけなければいけないのは「至れば」という表現で、これが口語表現ならば「もし至ったならば」という意味ですが、文語表現では「もう至っているので」という意味になるということです(「もし至ったならば」と言おうとしましたら、「至らば」としなければなりません)。ですからこの文は往相の後に還相がはじまると言っているのではなく、往相はそのままですでに還相であるということです。

そもそも往相、還相ということばそのものがその間に時間的な前後があるように思わせてしまいます。「往く」、「還る」というのですから、「往く」が前で、「還る」は後であるとならざるをえません。しかしここでもういちど原点に立ち返り、往生とはこことは別のどこか(アナザーワールド)へ往くことではなく、「いまここ」で「ほとけのいのち」のふところのなかで生かされていると感じることであることを思い起こしたい。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」のなかに摂取不捨されていると気づくとき、足下に浄土がひろがるということ(「すでにつねに浄土に居す」)、これが正定聚不退となることであり、すなわち往生することです。


タグ:親鸞を読む
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