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「自力の信」と「他力の信」 [『教行信証』「信巻」を読む(その124)]

(4)「自力の信」と「他力の信」

頭に浮ぶのが明恵の法然批判です。明恵は『選択本願念仏集』を読むや、そこで菩提心が否定されていることに驚き(法然は菩提心を余行として捨て、念仏一つを取ります)、菩提心は仏教の基本中の基本ではないか、菩提心を否定することは仏教を否定することに等しいと激しく論難しました(『摧邪輪』)。菩提心とは菩提すなわち仏の悟りを求める心ですから、仏の悟りをめざして仏道修行をする上での大前提としての信に他なりません。少し先のところで親鸞はこの批判に答えて、菩提心には竪すなわち自力の菩提心と横すなわち他力の菩提心があることを示し、法然が否定したのは竪の菩提心であって横の菩提心ではないことを明らかにします(「菩提心釈」)。

さて「自力の信」も「他力の信」も「疑網を断除する」点では同じですが、「自力の信」においては「疑網を断除しなければならない」のに対して、「他力の信」では「疑網はすでに断除されている」のです。

まず「自力の信」ですが、これには「絶対信じる」から「ほぼ信じる」、「まあ信じる」、「何とか信じる」までさまざまなグラデーションがあります。これは何を意味するかと言いますと、この信にはどこまでも疑がつきまとうということです。信のあるところ、かならず何がしかの疑が控えているということです。「絶対信じる」も、そのように力むこと自体、そこに疑が隠れていることを暗示しています。ではなぜ「自力の信」には疑が避けられないのでしょう。それは「自力の信」においては、「わたし」が「何か」を信じるという構図があり、そこでは「わたし」と「何か」とが切り離されているからです。切り離されたその隙間に疑いの風が入り込むのは必然で、それはもう「自力の信」の宿命と言わなければなりません。

では「他力の信」はどうでしょう。ここでは信じる「わたし」と信じられる本願は分離していません。「いのち、みな生きらるべし」という本願が名号の「こえ」となってわれらの心に届けられ、それがわれらの信心となっているのですから、本願と信心はひとつです。したがってもう疑いの入り込む余地はまったくありません。本願の信においては、疑網はすでに断除されているのです。


タグ:親鸞を読む
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