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よきひと [「親鸞とともに」その32]

(8)よきひと

それがもっとも分かりやすい形で示されているのが『歎異抄』第2章です。「往生のみち」を確認したいと、はるばる京までやってきた関東の弟子衆を前に親鸞はこう言います、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。これを見ますと、「『ほとけのいのち』に帰っておいで」というよびごえは、「よきひと」の仰せのなかからやってくることがよく分かります。「よきひと」の仰せは「念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」ですが、その声を通して「念仏してわれにたすけられまゐらすべし」という「ほとけ」のよびごえが聞こえてくるということです。

すぐ前のところで、「帰っておいで」という「ほとけ」のよびごえが聞こえますと、「あゝ、ありがたい」という思いが「はい、ただいま帰らせていただきます」という声となって出ていくと言いましたが、「よきひと」法然の仰せとは、この「わたしは『ほとけのいのち』に帰らせていただきます」という声に他なりません。親鸞は法然からこの仰せを受けて、そのなかから「わたしのもとへ帰っておいで」という「ほとけ」のよびごえを聞いたのです。「ほとけ」のよびごえは「よきひと」の仰せという衣をかぶってやってくるということです。このようにして「ほとけ」のよびごえを聞いた親鸞もまた、「わたしは『ほとけのいのち』に帰らせていただきます」と応答することになります。

では法然はどこから「ほとけ」のよびごえを聞いたのでしょう。法然には親鸞にとっての法然のように口づてに仰せをかぶることのできる師はいませんでしたが、しかし善導の書物がありました。法然は黒谷の経蔵において善導の『観経疏』の一節から「ほとけ」のよびごえが聞こえてきたのです。そこにはこうありました、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに」と。法然にはこの一節から「わたしのもとへ帰っておいで」という「ほとけ」のよびごえが聞こえたのです。

(帰るということ 完)


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