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「ありがとう」や「こんにちは」 [『唯信鈔文意』を読む(その165)]

(14)「ありがとう」や「こんにちは」

 しかし、そんな風土はもうなくなってしまった。いや、念仏の風土がまだ息づいている地方がどこかにあるかもしれませんが、それはもう特別無形文化財と言わなければなりません。今や、「ありがとう」と言うところを「南無阿弥陀仏」などと言えば、頭がおかしい人間と見なされかねません。
 しかし、「ありがとう」と言うところを「南無阿弥陀仏」と言うのであれば、逆に「南無阿弥陀仏」と言うところを「ありがとう」と言ってもいいではありませんか。「南無阿弥陀仏」と言うところを「こんにちは」と言ってもいいではありませんか。それが「南無阿弥陀仏」と同じ意味内容であることがはっきりしているならば。
 もう「南無阿弥陀仏」の外形に囚われる必要はないのではないでしょうか。源左に「ようこそ、ようこそ」の念仏があるように、ぼくにはぼくの念仏があっていいと思うのです。それが「南無阿弥陀仏」であることを忘れさえしなければ。
 一念多念に戻りますと、「念仏は一念で足りる」にせよ、「念仏は一念では足りない」にせよ、「念仏すれば救われる」と考えられています。「一念で救われる」か「一念では救われない」かが争われているのです。いずれも根本的な錯誤の中にあると言わなければなりません。
 「念仏すれば救われる」のではなく「もう救われているから念仏する」のです。「帰っておいで」という声が聞こえたから、嬉しくて念仏するのです。「源左、助くる」の声が聞こえたから、嬉しくて「ようこそ、ようこそ」の声が口をついて出てくるのです。
 としますと、念仏が一念だろうが多念だろうが、そんなことはどちらでもいいではありませんか。「そのままで救われている」という声が聞こえて、喜びが腹の底から突き上げてくれば、「南無阿弥陀仏」がおのずと口からもれ出てくるのですから、それは一度でいいとか、何度も称えなくちゃとかいうことはありません。「ただほれぼれと」称えるだけです。

                (第11回 完)

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