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本願成就文 [「親鸞とともに」その92]

(6)本願成就文

同時因果の例として取り上げたいと思いますのが、親鸞が『無量寿経』のなかででもっとも重要と考える本願成就文です。「その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」というもので、四十八願のなかの中心である第十八願が成就し、一切衆生の往生が実現したことを述べています。注目したいのは「かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得(願生彼国 即得往生)」という箇所にあらわれている因果関係で、ここに同時因果の典型が見られるということです。

その前に、この文全体の意味をおさえておきましょう。「その名号を聞きて」といいますのは、第十七願に「十方世界の無量の諸仏」が阿弥陀仏を讃えてその名号を称えるとあるのを受けています。すなわち、「いのち、みな生きらるべし」という本願が、十方諸仏の称える「南無阿弥陀仏」の名号(「こえ」)となって一切衆生に届けられているのですが、その「こえ」がわれらに聞こえて、ということです。次の「信心歓喜せんこと乃至一念せん」とは、その「こえ」が聞こえることは、取りも直さず、本願がわれらの心に沁みて、本願がわれらの信心となるということです。

そのあとの「至心に回向したまへり」が問題で、これは普通にはここで切らずに「至心に回向して、かの国に生れんと願ずれば云々」と一気に読むところですが、親鸞は「至心回向」の主語を如来へと転換するために、前後から切り離すのです。一気に読みますと、われらが至心に回向して浄土に生まれたいと願うとなりますが、親鸞にとって至心に回向する主体は如来しかありません。回向とは善きことをしてその功徳を他にふり向けるという意味ですが、われらのなす善はみな「有漏(うろ)」すなわち煩悩に穢れたものであり、真実に(至心に)回向することができるのは如来だけということです。かくして漢文の訓読としては如何にも不自然ですが、「至心回向」を前後から切り離し、「(如来が)至心に回向したまへり」と読むのです。


タグ:親鸞を読む
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