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「観る」から「称える」へ [『正信偈』を読む(その129)]

(4)「観る」から「称える」へ

 善導以前は、定善・散善を説くのが『観経』の本旨であって、「十念往生」は方便として説かれているに過ぎないと理解されていたのですが、善導はそれに異を唱え、「十念往生」こそこの経の本旨であると主張したのです。しかし、何を根拠にそんなことが言えるのか。善導は『観経』の最後の部分に注目します。釈迦は阿難にこう言うのです、「汝よ、好くこの語を持て。この語を持てとは、すなわちこれ、無量寿仏の名を持てとなり」。善導はここに釈迦の本心があらわれていると見るのです。
 『観経疏』に次のようにあります、「仏告阿難汝好持是語(仏、阿難に告げたもう、汝よ、好くこの語を持て)といふより已下は、まさしく弥陀の名号を付属して、現代に流通(るずう)することをあかす。かみよりこのかた定散両門の益をとくといへども、仏の本願にのぞむれば、こころ衆生をして一向にもはら弥陀仏のみなを称せしむるにあり」と。これまでのところで定善・散善について説いているが、阿弥陀仏の本願からすれば、ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えさせるのが釈迦の本意に違いないと言うのです。当時の通説は「十念往生」を方便と見ましたが、善導は「定善・散善」こそ方便と見たのです。こんなふうに通説をひっくり返したのが善導です。
 しかし、『観無量寿経』という名前からして、無量寿仏そしてその浄土を「観る」ことがこの経の主題であることは疑えません。無量寿仏の名を「称える」ことは、十悪・五逆の「下品下生」のために用意された特別なメニューと捉えるのが公平でしょう。それをひっくり返すためには、基本的なスタンスを変えることが必要です。ただ単に「観る」のは難しくて凡夫には及びがたく、それに対して「称える」のは易しく一切衆生に開かれていると言うだけでは一般通念の構図を塗り替えることはできません。どちらにしても<する>立場に立っているからです。


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