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若不生者のちかひゆゑ [親鸞の和讃に親しむ(その11)]

第2回 浄土和讃(2)

1.若不生者のちかひゆゑ

若不生者(にゃくふしょうじゃ)のちかひゆゑ 信楽(しんぎょう)まことにときいたり 一念慶喜(きょうき)するひとは 往生かならずさだまりぬ(第26首)

若不生者の誓いあり。ゆえに信心おこりきて、一念慶喜するひとは、いま往生がさだまりぬ

第25首につづき、第十八願の成就について詠います。もう一度、第十八願成就文を上げておきますと、「諸有衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん(諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心回向、願生彼国、即得往生、住不退転)」とあります。ただしこれは親鸞独自の読みで、「至心回向」以後を普通に読みますと、「至心に回向してかの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」となります。つまり主語は前半と同じく「諸有衆生」とするのが順当な読みですが、親鸞は「至心回向」の主語をあえて如来として前後の文から切り離すのです。これが親鸞流で、至心に回向することはわれら衆生にできるはずがないとして、読み方に多少の無理があろうと、その主語を如来と読み替えます。

「至心回向 願生彼国」を「至心に回向してかの国に生れんと願ぜば」とつづけて読まずに、「至心に回向したまへり。(その故に)かの国に生れんと願ぜば」と読むことによって、どうしてわれらが往生を願うと「すなはち(そのときただちに)往生を得」ることができるのかがすっきり了解できるようになります。もし至心に回向するのがわれらだとしますと、たとえどれほど至心に回向するとしても、なぜ往生を願うだけでそれがすぐさま叶うのか不鮮明ですが、如来が至心に回向してくださっているのだとしますと、往生を願うだけでそれが実現するのは当然のことになります。如来がすでにわれらの往生を願い、至心に回向してくださっているのですから、われらがそれに気づき往生を願えば、そのときただちに往生できるわけです。この和讃はそうした独自の読みを下敷きにして詠われていると知ることで、すんなりと頭に入ってきます。「若不生者のちかひゆゑ」とは「如来が至心に回向してくださっているのですから」ということであり、だからこそ「信楽まことにときいたり(気づきのときがきて) 一念慶喜するひとは 往生かならずさだま」ることになるのです。


タグ:親鸞を読む
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