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「『正信偈』ふたたび」その16 ブログトップ

偈文3 [「『正信偈』ふたたび」その16]

(7)偈文3

このように「ほとけの願い」は「南無阿弥陀仏」の「こえ」となってわれらを目覚めさせてくれます、「何か大事なことを忘れてしまってはいないか」と。その「こえ」にハッとわれに返り、「わたしの願い」の底の底にひっそり息づいている「ほとけの願い」を思い出すのですが、われらを目覚めさせるはたらきをするものがもうひとつあります。それが不可思議な「ひかり」です。

普放無量無辺光 無礙無対光炎王

清浄歓喜智慧光 不断難思無称光

超日月光照塵刹 一切群生蒙光照

あまねく無量・無辺光、無礙・無対・光炎王、

清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、

超日月光を放ちて塵刹(塵は無数ということ、刹は国土で、限りなく多い国)を照らす。一切の群生、光照を蒙(かぶ)る。

その「ひかり」の特徴が十二の名前でよばれます。「無量光」とはその「ひかり」のはたらきが無限であるということ、「無辺光」とは辺際がないこと、「無礙光」とはそのはたらきに一切の障りがないこと、「無対光」とは他と比べようがないこと、「光炎王(経には炎王光)」とはその強さがこの上ないこと、「清浄光」とは貪りを消して清らかにしてくれること、「歓喜光」とは瞋りを消して慶びを与えてくれること、「智慧光」とは愚痴を消して明るくしてくれること、「不断光」とはそのはたらきが絶え間のないこと、「難思光」とはこころも及ばないこと、「無称光」とはことばも及ばないこと、「超日月光」とは日光や月光も超えているということです。そのような「ひかり」が「一切の群生」を照らして、不思議なはたらきをするというのです。

「ほとけの願い」は「南無阿弥陀仏」の「こえ」となって、すっかり忘れてしまっていた「ほとけの願い」を思い起こさせてくれると言いましたが、「ほとけの願い」はまた不可思議な「ひかり」となって、「わたしの願い」の奥底に眠っている「ほとけの願い」に気づかせてくれるのです。


タグ:親鸞を読む
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