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海に入りて一味 [「『正信偈』ふたたび」その28]

(8)海に入りて一味

後の二句、「凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水、海にいりて一味なるがごとし」のもとも『論註』の「海の性(しょう)の一味にして、衆流入れば、かならず一味となりて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとし」という一文です。「凡聖逆謗」の「凡聖」は「凡夫と聖人」、「逆謗」は「五逆と謗法(ほうぼう)」で、「五逆」は「殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血(仏を傷つける)・破和合僧(僧団の和合を破壊する)」という五つの重罪、「誹法」は「仏法を誹謗する」ことです。あわせて聖人から大罪人までみな等しくということで、信を得れば、どんな人も分け隔てなく同じ救いにあずかることができるという意味になります。

親鸞はこのことを和讃でも次のように詠っています、「名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり」(『高僧和讃』曇鸞讃)と。この和讃では「逆謗」に焦点が当てられ、どんなに悪逆非道なものも、まったく隔てなく本願の海に入ることができるといわれます。「逆謗の屍骸もとどまらず」とは、逆謗の屍骸はどこかの岸に打ち上げられるということではなく(そのように解説してある本があったのですが、それでは排除されるということになります)、「功徳のうしほ」のなかに溶け込んで「一味」となるということです。さあしかし、どんな聖人も、どんな悪人も本願の海のなかでは何の違いもなく、まったく同じ救いにあずかることができるということには、何か感覚的に受け入れがたいものがないでしょうか。

われらが「凡聖逆謗みな一味」ということに違和感を覚えるとき、頭に浮んでいるのは、それぞれに「あんなヤツ」と思っている人物の顔でしょう。そして「あんなヤツと一味になるなんてたまらん」と思い、「あんなヤツと一緒に救われるのなら、そんな救いは願い下げにしたい」という思いが膨らんでいます。愛妻と愛娘をなぶり殺しにされた人が言った「犯人と同じ空気を吸いたくない」ということばが脳裏に焼き付いています。「善因善果、悪因悪果」ということばもありますが、このように善人も悪人も一緒くたにされることへの反感には根深いものがあります。


タグ:親鸞を読む
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