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無知の知 [『ふりむけば他力』(その87)]

(11)無知の知

 ソクラテスの「無知の知」を思い出します。デルフォイのアポロン神殿から「ソクラテス以上に智慧のあるものはいない」という驚くべき神託を受けたソクラテスは、自分にそんな智慧があるとはとても思えないので、世の誰からも智慧があるとされる人たち(ソフィストとよばれます)を訪ねて神託のまちがいを正そうとします。しかし彼らと問答を重ねることで、彼らは自分には智慧があると自負しているが、その実ほんとうのことは知っていないことが判明するのです。そこでソクラテスは結論します、彼らも自分もほんとうのことを知っているわけではないが、彼らは知らないのに知っていると思っているのに対して、自分は知らないからその通りに知らないと思っている、その一点で自分の方が智慧があるということになるらしい、と。
 さてしかし、ここには微妙で重要な問題があります。どのようにして己の無知を知ることができるかということです。
 もしソクラテスがほんとうのことについて無知であるとすれば、自分が無知であることもまた知らないはずです。もし誰かが「ぼくは嘘つきだ」と言ったとしたら、その言明も嘘でしょうから、彼は嘘つきではないことになります。これは「嘘つきのパラドクス」と呼ばれますが、それと同じようにソクラテスが「ぼくは無知だ」と言えば、彼はそのことに関しても無知のはずですから、この言明にはどうしようもない撞着があります。としますと「無知の知」は無意味な言明ということになるのでしょうか。とんでもありません、『ソクラテスの弁明』(これはソクラテスが刑死した後、ソクラテスを師と仰ぐプラトンが書いたもので、ここに「無知の知」が出てきます)を読めば、そこに真実があることが身に迫ってきます。
 そこで「気づき」です。己の無知を「知る」ことはできません(できると言った途端にパラドクスが炸裂します)、それは「気づかされる」のです。あらためて「知る」と「気づく」の違いを確認しておきますと(第2章、4)、「知る」とは「こちらから」何かをゲットすることであるのに対して、「気づく」は「むこうから」何かにゲットされることです。われらは己の無知をゲットすることはできませんが、あるとき思いがけず己の無知にゲットされているのです。これが「無知に気づかされる」ということであり、そこには何の矛盾もありません。

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