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7月30日(土) [矛盾について(その361)]

 喜びに「であること」の喜びと「があること」の喜び(「そのままで救われている」の声に遇えた喜びです)がありました。
 「であること」の喜びは誰かの喜びです。美味しいものを食べる喜びは、それを食べる人の喜びであって、指をくわえて見ている人の喜びではありません。しかし「があること」の喜びには誰かということがありません。「があること」の喜びは「こちらから」手に入れることはかなわず、「向こうから(あなたから)」与えられるしかありませんが、それが与えられたとき、もはや誰かの喜びではありません。
 もちろん与えられたと感じるのは誰かですが、与えられるのは誰か「があること」の喜びではなく、みんな「があること」の喜びです。そこではもはや「ぼく」も「きみ」もありません。ぼく「があること」が嬉しいのはもちろんですが、きみ「があること」ことも嬉しく、生きとし生けるものすべて「があること」が嬉しいのです。
 「そのままで救われている」というメッセージは、それに遇うことができた人が「そのままで救われている」だけでなく、世界そのものが「そのままで救われている」ということです。このメッセージがあるからこそ、隣に悲しみに沈んでいる人がいても、その人に寄り添い、じっと待つことができるのです。その人がどれほど「救いがない」と嘆き悲しんでいようと、もう世界そのものが「そのままで救われている」のです。
 残念ながらその人にこのメッセージが聞こえていませんが、いつかきっとこのメッセージが届く日がくるでしょうし、よしんばその日が来ないとしても、それでも世界は「そのままで救われている」のです。


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