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貪愛・瞋憎の雲霧 [『歎異抄』ふたたび(その83)]

(4)貪愛・瞋憎の雲霧


本文に戻りましょう。唯円がこころのうちに包み隠しておくことができず、告白せざるをえなくなった一つ目は、本願に遇うことができたときの突き上げるような喜びのこころがいつのまにか疎かになってしまったということです。これは通常のこころの醜さとはまた別ですが、しかし本願を信じ念仏を申す身となったものとしては、なかなか大っぴらには口にできないことです。できればなにくわぬ顔をして通り過ぎたいところでしょうが、そうはさせない力がはたらいて、告白せざるをえなくなったのです。


本願に遇えた喜びのこころが疎かになるということは、「信巻」の悲歎のことばで言えば、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざる」ということに他なりません。愛欲と名利の生活に埋没してしまっているということで、ほんとうによろこぶべきことをよろこばず、愛欲や名利の生活の一コマ一コマによろこびを感じているということです。これは決して本願に遇えたよろこびが消えてしまったということではなく、日々の喜怒哀楽のなかに埋もれてしまったということでしょう。


本願に遇えたよろこびは、ひとたび味わうことができればもう決して消えることはありません、生涯こころをあたためつづけてくれます。でも、日常の些細なよろこびにとり紛れてついどこかに置き忘れてしまう。これを親鸞は「よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは、煩悩の所為なり」と言います。信心の門に入り正定聚としての道(無礙の一道)を歩む身となっても煩悩がなくなるわけではないということです。「正信偈」ではそのことを「摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり」と言っています。そしてさらに「たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」という譬えで教えてくれます。


信心と煩悩は同行二人です。



タグ:親鸞を読む
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