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ただ念仏 [親鸞の手紙を読む(その70)]

(9)ただ念仏

 この手紙は有阿弥陀仏に宛てられていますが、どのような人かよく分かっていません。そして何年に書かれたものかも分かりませんが、末尾の書きぶりからしまして、最晩年の手紙であろうと思われます。さてこの手紙は「念仏の不審」についての問い合わせに答えるもので、その不審とは「念仏往生と信ずるひとは辺地の往生」と言う人がいますが、これはいかがなものでしょう、ということのようです。それを親鸞は「おほかた(まったく)こころがたく候ふ」ときっぱり否定しています。
 「念仏往生と信ずるひとは辺地の往生」というのは、おそらく、ただ念仏するだけで往生できるとするのでは不十分で、本願を信じることがなければならないということだと思われます。名号を称えることばかりで、本願を信じることがどこかにいってしまっては往生できません、という主張ではないでしょうか。さてしかし、そのどこが「おほかたこころえがたい」のか。「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」(『歎異抄』第12章)とするのが浄土の教えであり、まずは「本願を信じ」、その上で「念仏をまうす」こととならなければならないのではないでしょうか。ただ念仏するだけで往生できるとするのでは不十分ではないか。
 親鸞はそれにこう答えます、「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきこと」と。親鸞の答えのこころは、「ただ念仏」(これが「専修念仏」という法然の教え、ひいては善導の教えですが)の中には「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じ」ることがすでに含まれているということです。ひとすじに念仏することは、弥陀の本願を深く信じることと一体であり、その二つを切り離すことはできないということ。前の手紙で「信と行はひとつ」と言われていたのと同じことです。
 「ただ念仏」では不十分とする人は、念仏ばかりで本願を信じることがお留守になっているのではないかと難くせをつけているのですが、その人のなかでは信と行がひとつでなくふたつになっていると指摘しているのです。

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