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真理はどこかにある [はじめての『高僧和讃』(その69)]

(12)真理はどこかにある

 「生死すなわち涅槃」という境地にこちらから入ろうとしても、到底入れるような気がしませんが、あるときふとその境地にもう入っていることに気づく。これが往相は如来の回向ということです。そして、如来から信行が回向されてはじめて「生死すなわち涅槃」の境地に入ることができる。これが「悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり」ということです。こちらから真理に入っていこうとしてもできないのに、あるときもうすでに真理に入っていることに気づく、このことに思いを潜めてみましょう。
 ぼくらは真理というものがどこかにあるものと思っています。で、それを求めて出かけていく。これは食べ物で考えてみるとよく分かります。ぼくらは日々食べ物を求めて出かけなければなりません。これは野生動物たちや原始人たちだけではなく、現代人でも同じで、直接食べ物を求めるのでなくても、結局は食べる物を手に入れるために出かけていきます。どこから?もちろん「わが家」からです。どこへ?それがありそうな場所へ、現代人なら仕事場へ出かけていくのです。
 食べ物と同じように、真理もどこかにあるはずだと思い、それを求めて出かけていきます。どこから?同じく「わが家」からです。どこへ?それが見つかりそうな場所へ、現代人なら大学や研究所、あるいは図書館へと出かけていきます。そして食べ物と同じように、普通は首尾よく見つけることができるでしょう。見つからないのはやり方に問題があるからだと反省して、見つかるまで努力しつづけなければなりません。
 さて問題は「魂の糧」となる真理です。それによって生きることができるだけでなく、それによって死ぬことができるような、そんな真理。これもどこかにあり、それを求めて出かけていかなければならないのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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