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「親鸞とともに」その1 ブログトップ

はじめに [「親鸞とともに」その1]

第1回 生きる意味ふたたび

(1)はじめに

もう10年以上も前になりますが、「生きる意味」についてまとまった文章を書いたことがあります。いままた同じ題目で再び考えてみようと思い立ったのは、今年2023年は親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年に当たり(親鸞は1173年に生まれています)、東本願寺(真宗大谷派)の慶讃法要のテーマとして「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」と定められたことがあります。このテーマが取り上げられた趣旨を真宗大谷派教学研究所長の楠信生氏は次のように書かれています。

 

人は、この世に生まれて生きて、納得できる人生であることを願う。けれども、本当の生まれた意味や生きがいは、自分がどのようなものとして生きているのかを知ることなく、また、自分の心の闇について考えることなしに得られるものではない。

人は、躓き壁に突き当たって生まれた意味や生きる意味を考える。だが「人と」生まれたことの意味を考えるであろうか。「人として」生まれたことが、どれほど大切な意味をもっているのかを人間自身から考えることはできないのである。

人は生活の中で、生きがいを求めて、心を満たすものを外へ外へと追い求める。そのとき、自分が仏さまから願いがかけられていることには気づかない。

このことは、親鸞聖人が比叡山を下りられたこと、法然上人と出会われたことと、無関係ではない。

悲しみや苦しみの連続であっても、そのことが人生を決定づけるものではない。仏の本願に出遇うことで、この世に誕生した意味に目覚め、人生をいただくことが始まる。私たち一人ひとりの誕生の意味を、親鸞聖人の御誕生から考えることである。

 

この文を受けて、あらためて「生きる意味」について考えてみようと思い立ったわけです。


タグ:親鸞を読む
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