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世界の実相? [『ふりむけば他力』(その113)]

(9)世界の実相?

 ところが仏教のオーソドクスな説き方では、「わがもの」への執着(我執)は、縁起や無我という真如実相を知らないこと(これを無明と言います)から生じるとされます。すなわち「わがもの」への執着は世界の実相についての無知から生まれ、それに対して縁起や無我こそが世界の実相だとされるのです。したがって縁起や無我という実相を知ることができれば、「わがもの」への執着から抜け出ることができるということになります。これが解脱であり、それをめざすのが仏教であると説かれます。としますと「わがもの」に執着するのは偽の世界(うその世界)であり、縁起や無我こそ真の世界(ほんとうの世界)であるということになり、かくして真の世界と偽の世界の二元論となります。
 問題の根源は、縁起や無我が「世界の実相」であり、それをわれらが知ることできるとすることにあります。
 縁起や無我が世界のありのままの姿なのに、われらは「わがもの」に執着している結果、その実相を見ることができないとされるのです。「わがもの」への執着がわれらのものの見方を支配しているのはその通りです。われらはいわば「わがもの」の眼鏡をかけて世界を見ているのであり、そのことを「わがもの」の物語のなかにあると表現してきたのです。問題は、その眼鏡を外すことができるかのような、あるいはその物語の外部に出られるかのような説き方がされることです。その眼鏡を外したときに見える世界が「ありのままの姿」であり、あるいは「実相」であるとしますと、いかにもわれらの意思次第で「わがもの」の眼鏡をかけたり外したりできるかのようです。あるいは自在に「わがもの」の物語の外部に出られるかのようです。
 しかしこの眼鏡はかけ外し自由ではありませんし、この物語の外部に出て「あるがまま」の世界に入ることはできません。われらにできるのは、われらはつねにこの眼鏡をかけて世界を見ていると気づくことであり、この物語の外部に出ることはできないと気づくことだけです。そしてその気づきは、この眼鏡をかけて見える世界には外部があるということ、すなわちこの物語には外部があるということの気づきです。内部にいることの気づきは、外部があることの気づきに他なりません。

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