SSブログ
「『おふみ』を読む」その21 ブログトップ

主体的真理 [「『おふみ』を読む」その21]

(8)主体的真理

客観的な真理においては、主体は消去されます。ある人が言っているから真理であるのではなく、誰が言おうとそんなことには関係なく正しいのが客観的真理です。「どんなつみびとも漏らさず救ってくださるのが弥陀の本願である」が客観的な真理だとしますと、それを誰が語るかには左右されません。しかし弥陀の本願とはそのような性格のものでしょうか。どこかに弥陀の本願というものが客観的にあるのでしょうか。そうではありません、誰かがそれをわが身に感じてはじめて本願が本願としてあらわれるのです。

キルケゴールという人は、宗教的真理は主体的真理であると言いました。主体的真理とは「他ならぬこの自分がその真理によって生き、その真理で死んでいける、そのような真理」のことです。それは自分以外の人にとって何の意味もないものであるかもしれませんが、そんなことはどうでもいいことです、この自分ひとりがその真理に生き、その真理に死ぬことができさえすれば。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」とはそういうことです。

さて、「どんなつみびとも漏らさず救ってくださるのが弥陀の本願である」が主体的真理であるということは、自分がその真理のなかに生き、そして死ぬということですから、「どんなつみびと」のなかにこの自分が入っていなければなりません。いや、「つみびと」とは他ならぬこの自分のことだという思いがあるはずです。どこかにいる「つみびと」が救われるのではなく、他ならぬこの「つみびと」である自分が救われるのです。だからこそこの真理に生き、そして死ぬことができる。

主体的真理とは「わたし」の<外>にあるのではありません。それでは「わたし」がその真理に生き、そして死ぬことはできません。その真理の<中>にいるからこそ、「わたし」はその真理に生き、そして死ぬことができるのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『おふみ』を読む」その21 ブログトップ